晴れ男晴れ女・雨男雨女
今日は長文エントリーです。
過去のエントリーを久々に読み返してみると。
まあ、私は妻を褒めまくっている。(褒めてるのよ)
コレはこのブログに限ったことではなく。
友人知人、親族、仕事の関係者の方にまで、隔たりなく、妻を褒める。
だって、私の妻はスゴイ!と思うから。
そこには嘘偽りはないのです。
と、思ったのですが。
そういえば、私は自分の家族も親族も友人も仕事の関係者の方も結構褒める。
すごいなーとか素晴らしいなーと思うことを素直に褒める。
褒めても損はしない。
だからとりあえず褒めとけ。
という損得勘定が0ではない。
無いけど、それだけでやっているテクニックと言うわけでもない。
ようは、どちらにフォーカスするのか。
そんな話を今日はしたいのです。
晴れ男晴れ女・雨男雨女という話をする人がいる。
「私は晴れ男(女)なんです」
「私は雨男(女)なんです」
という人が結構いる。
これも実はどっちにフォーカスしているかの問題だと思う。
本当に100発100中で晴れまたは雨になる!!と言う人は、もうそれを仕事にするべきだ。
世の中には雨を求める人も晴れを求める人もかなりの割合で存在する。
そんなスーパーな特殊能力の持ち主なら、巨万の富を手に入れることが出来ること請け合い。世が世なら救世主か神様のようにあがめられること請け合い。
でも、少なくともそんな人は聞いたことが無い。
じゃあ、なんで自分は晴れ男(女)雨男(女)だ!なんて考えるかと言うと。
雨男(女)の人は予定があるときに雨になるとその印象が強く残り。
晴れるとそんなに印象に残らない。
極論的に雨男(女)の人は
「予定があるときは晴れるのが当たり前!」
と思っている。
晴れ男(女)の人は予定があるときに晴れになるとその印象が強く残り。
雨になっても気にしない。
極論的に晴れ男(女)の人は
「天気なんて気まぐれ。晴れたらラッキー!」
と思っている。
と、思う。
極論の極論だが、ということで、雨男(女)だと自分で思っている人(更に言えばそういう分類を他人にしたがる人も)自分の都合に合わせて天気がうまく合わないことに不満を持つ人なのだ。
つまりエゴだと思う。
そして、その(自分の)エゴのせいで、悲しい気分になったり、不機嫌になったりするのは時間の無駄だ。と私は考えるのだ。
天気に関しては、予定を立てる際に、晴れたら・雨ならの2パターンくらいは最初から考えようよ。と思う。
なんでもそうだが、本命パターンとサブパターンくらいは前もって考えておくのが大人の嗜みなわけだ。
話を最初に戻す。
人を褒める。
コレもどっちにフォーカスするかの問題だ。
どんな人にも長所があり短所があり。時と場合によって長所が短所に、短所が長所になるものだ。
得意不得意、好き嫌い。
何でも出来るスーパー超人は基本いない。(ごくたまにいるけど)
だってそれが人間だもの(みつお風)
で、基本人を貶す(口には出さないけれどそっちに目が行く人も含む)人は
極論的に「私に出来ることは皆出来ること、なぜ出来ないの?非常識だ!センスが無い!不器用だ!学が無い!(皆と違うことは)はずかしい!」
と思っている。
基本人を褒める人は
極論的に「人には欠点が必ずあるものだ。それも時と場合で利点になるようなものだ、人は本当に人それぞれ。うまく環境とかみ合ったらラッキー」
と思っている。
さて、コレって更に言うと「幸せ感・不幸せ感」にも同じことが言える。
不幸せにばかり気がつく人は
極論、美人(美男子)と付き合えたら幸せになれると信じてる。
極論、結婚したら幸せになれると信じてる。
極論、子供が生まれたら幸せになれると信じてる。
極論、お金持ちになったら幸せになれると信じてる。
極論、何かをすれば幸せになれると信じてる。
幸せに気がつく人は
極論、生きてるだけで丸儲けと思ってる。だから彼女(彼氏)が出来るだけで、(むしろ誰かが自分に好意を抱いてくれるだけで)ラッキー
極論、結婚できる環境を作ることは大変だと思っている。だから結婚できたらラッキー。一緒に生活できるだけで超ラッキー。
極論、子供は授かりものだと思っている。授かったからには無償の愛を注ぐことはいとわない。たまに笑顔を眺めることが出来るだけでラッキー。
極論、お金は最低限生活できる分を稼ぐのも大変なことだと思っている。だから日々家族が生活できるだけでラッキー。たまに外食なんかできたら超ラッキー。
極論、すでに、今日、今、生きていられるだけで凄く幸せだと思っている。
どちらがいいかはその人次第。
でも、どちらに自分が(潜在的に)フォーカスしているのか。
そして、なんでそっちにフォーカスしているのかを改めて考えると。
結構簡単に幸せになれるかも知れないなー。
なんて。