アンバランスな経験値が問題なんじゃないだろうか
ブログを書くという作業を始めてよかったなと思うところで
「アウトプットできる」場所を手に入れたということが一番なのです。
日々、その時、その場で思ったこと。
ちょっと考えて、少しまとまったこと。
もやもやすること。閃いたこと。
そういう些細なアイデアや考えを
少なくとも「文章化」して。
「不特定多数の人」が読んでくれる場所へ「提示する」。
これって実はすごく大事な経験だと思うのです。
頭の中でふんわりしているものを形にする。
実際してみると、思った以上にふんわりしていてまとまらない。
又は思いのほか、さらに新しい疑問や考えるテーマを思いつく。
そんなことが往々にしてあるのです。
もちろん今までも、いろんな人と話し合ったり、発表したり。
新人教育や子育ての中で「アウトプット」してきました。
でも、絶対的に少ない。
少なくとも、日々膨大な情報に触れ、溢れるばかりの「インプット」の作業に比べればまったくもって足りていないのです。
で、これって結構問題だと思うのです。
この年になってやっと、
「プレゼンする」経験、「会議を進行する」経験。
「誰かを教育する」経験、「子育てをする」経験。が増えていますが、
学生の頃どころが、社会人になって数年はほとんど「アウトプット」する機会も経験もなかったのです。
「インプット」するのも「アウトプット」するのもそれぞれ別の技術が必要です。
それなのに、「インプット」するばかりで「アウトプット」していないと、
その大切な技術もわからないままなのです。
結果、「アウトプット」することがますます苦手になっていくのです。
しかし、本当に問題なのは、「インプット」と「アウトプット」は両輪である
ということなのです。
「インプット」と「アウトプット」は螺旋のようにからまっているのです。
「インプット」をして終わり。「アウトプット」だけで終わり。じゃないのです。
両方を行って初めて1セットが終わるのです。
双方揃って初めて自分のものになっていくのです。
と、ここまで考えていて、実はもっと深刻なアンバランスな経験があるなということに気付きました。
例えば
「買う」経験は膨大にあるけど「売る」経験は全くない人。
「消費」はいつもしているけど「生産」はしたことがない人。
etc...
片方は生まれた時から浴びるように経験しているけど、もう片方はまったく経験したことがない。という事柄。
本当は両輪で、螺旋で、1セットを行うことで全体像を理解することなのに、片側だけで完結していまい、むしろそれで終わっていることにすら気づいていない場合。
高度に細分化された社会の弊害だ!とか
都会に住む人だけの問題だ!とか
ゆとり教育とはそこが問題なのだ!とか
個人の自己責任だろう!とか
ま、いろんな意見がある問題の気がします。
とはいえ、実はこの辺に、社会において一定数存在する「困った人」を生み出す理由がある気がするのです。
ちょっと大きなテーマになってしまいました。
とはいえ、もう少し考えてまたこの話の続きを書いてみます。
・・・書けたらいいなー